殺し合い、などと言われて、よく知らない他人と一緒にいる気は起きない。古橋を追いながらも、ぼんやりと考え事をする坂本の目が、不自然に置かれた廊下の机を映した。その上に並ぶのは、包丁やバットなどの武器。足を止めた坂本は、包丁をひとつ手に取った。殺し合い。再び脳裏によみがえったその言葉に、握った手は包丁を放さない。「身を守る武器」、包丁の代わりに呟きを落として、坂本は再び走り出した。
後を追いかける大上は、その様子に息を呑んだ。彼女は、殺し合いに乗る気なのだろうか。智弘が危ない。大切な従弟を、守らなければ――その思いに突き動かされ、大上はバットを握りしめ、坂本の背を追う。それこそが、殺し合いの誘いに乗っているとも知らずに。
背後から、坂本に襲いかかる大上。バットの一撃が、振り向いた坂本の肩を打った。だが大上が追撃をかけるより早く、坂本の手にした包丁が、大上の頸動脈を切り裂いた。悲鳴よりも先に噴き出した血が、廊下の窓を真っ赤に染める。見開かれた瞳に、守ろうとした智弘の背は映らず、返り血に濡れた坂本の冷めた表情を映したまま、ゆっくりと大上は床に膝をついた。血だまりをわずかに揺らす最後の呼吸を残して、大上は力尽きた。
大上の死体を見下ろし、坂本は心を決めた。自分の目的は、白滝まどかを見つけること──そして、無事に家へと帰ることだ。大上は自分に襲いかかり、それを邪魔した。これは正当防衛で──これからも、正当防衛だ。ひどく痛む左肩が、それを証明してくれる。返り血のついた唇をひと舐めした坂本の耳に、乱れた足音が飛び込んだ。
争う音に駆け付けた小太郎と神楽が目にしたのは、血の海に沈む大上と、包丁を手に佇む坂本の姿だった。二人の姿を見つけるや否や、包丁を振り上げ襲いかかる坂本。その包丁をかわしながら応戦する小太郎。だが坂本の身体能力に押され、小太郎は壁際へと追い詰められる。
その瞬間、神楽が横から坂本に飛びついた。ゆうちゃんやめて。その声にも構わず、視線を邪魔者へと移した坂本は、無造作に凶器を振り下ろす。咄嗟に神楽を突き飛ばした小太郎の腕に、錆びた刃が深い紅の筋を描いた。
蹲る小太郎にとどめを刺すべく歩み寄る、坂本のゆっくりとした足音。そして何かが振り下ろされる音。鈍い打撃音。重いものが床に叩きつけられる音――
顔を上げた小太郎の視界に飛び込んだのは、崩れ落ちた坂本と、その向こうに立つ大上仁子。返り血の紅を差した口元が、ゆっくりと吊り上がっていく。「はーい。『あたし』のカタキは取ったからね」――そこから零れたのは紛れもなく、旧校舎の悪霊・アカネの声だった。

智弘が見つけた時、古橋は階段に膝を抱え座り込んでいた。声をかけても、うずくまる彼は肩を震わせるばかり。もう一度声をかけて、やっと古橋は涙を拭い、顔を上げた。視線を彷徨わせ、震えながらも笑みを浮かべる古橋。ちょっと混乱しただけです、もう大丈夫。りゅー兄ぃがあんなんで死ぬ訳ない――はっきりと、確かめるように古橋は口にした。
りゅー兄ぃを、まーちゃんを助ける方法を探さないと。そう言って立ち上がる背を見て、智弘は目を細めた。
古橋もまた、一人の『霊能者』として歩み出した。その背はまだ小さく、握り締めた拳も震えている。けれど、足はしっかりと踏みだしている――胸中に浮かぶ気持ちを抑えるように、智弘は手を押し当てた。自分の成長を見ていた先輩達も、こんな気持ちだったのだろうか。ならば、この手は自身の感情を抑えるのではなく、古橋の背を支えなければ──歩き出す古橋の背を追うように、智弘もまた歩き出した。
二人の気配に、半透明のまどかは隠れるように教室へと飛び込む。その姿に、とっさに叫ぶ古橋。迎えに来たんだよ、と。だが振り返ったまどかは、古橋もその言葉も拒絶するように、首を激しく横に振った。
「もう帰れない。帰りたくない」まどかは叫ぶ。
自分が嫌い、自分なんて居なくても良い。誰かの期待になんてもう、応えきれない。偶像を褒めそやされて、その偶像に重なることも嫌でしかない。
だから、『鏡のおまじない』を試した。自分でない誰かになる為に。誰かと入れ替わる為に──叫び声はいつしか自嘲の笑みに変わり、絞り出すように彼女は呟く。たった一つの願い事も叶わなくて、今更戻れる訳がない。戻りたくもない──……
それでも、古橋は拳を握りしめ、たじろぎもしない。「まーちゃんが、いなくなるなんて、俺は嫌だ」凛とした言葉に、息を飲むまどか。何かを振り切るように、彼女は苛立ちのまなざしで彼を睨み付ける。「帰らないなら、死んで。『マコトさん』のために」……その声に呼応するように、彼女の周囲に闇が渦巻く。おまじないに引き込まれた彼女は、今や怪異となりつつあったのだ。

倒れた坂本の背から片足をおろし、アカネは小太郎を見下ろす。退魔札へと手を伸ばす小太郎に、彼女は肩を竦めて両手を広げる。「助けたってーのに、お礼の言葉もないなんて、この薄情者ー」あっけらかんとしたその言葉に、小太郎の緊張の刃がこぼれた。
そんな小太郎に、アカネが問うたのは「何が起きてるの?」その一言だった。彼女自身、なぜ自分がここに現れたのか、よく理解していない。ただ彼女が知っているのは、「意志ある霊道」──誠人の霊道が異常肥大し、霊界と現世が混沌とし始めていること。霊界から押し出された彼女がたまたま見つけた“死体”が大上だった──そう手の内を明かしたアカネは、もう一つ、口にした。「あそこには『悪意』が集まってるよ」
肥大化した霊道、渦巻く悪意。そして、誠人の姿をしたマコト──絡み合う異変の中心にいるのは、もはやまどかではなく、マコトだ。そして、霊道を広げるなどという芸当ができる以上、マコトは霊でも悪霊でもない──そう結論付けた小太郎を覗き込み、アカネはバットをもてあそぶ。
「ねえ、あたしもそいつ、気に入らないの」
かつての仇敵からのその言葉に、小太郎は目を見開く。彼の反応を試すように、それきり口を噤むアカネ。瞬間の思考の後、小太郎は彼女を真っ向から見据えた。
「『悪意』を倒すなら、手伝わない理由はないな」
それを聞いて、アカネはニヤリと笑う。その笑みは、確かに答えであった。

次の瞬間、坂本の倒れた床に闇が広がった。彼女の身体が、床に吸い込まれるように消える。「共闘とかされても困るんだよね」神楽の背後から響く、マコトの声。次の瞬間、彼女の胸を貫く、闇を纏ったマコトの腕。小太郎の手は届かず、神楽もまた、小太郎の目の前から消え失せる。嘲るようなマコトの声で、頭に血を上らせた小太郎は、アカネの制止も振り切り特攻を仕掛けた。
憎悪の込められた一撃を真っ向から受け止め、マコトは心地よさそうに笑う。俺は悪意そのものだ、そんなものじゃ殺せない――小太郎の腕を捕らえ、渦巻く悪意の──怨嗟ではない、純然たる悪意の中、囁くマコト。捕らわれた腕にも構わず、小太郎は拳を振り上げ──膨れ上がる闇が、ついに小太郎をも飲み込んだ。

まどかの唇から紡がれた「マコトさんのために」、その言葉に古橋はもはや、紡ぐ言葉を失ってしまった。そんな彼らに、闇から伸びた手が襲いかかる。智弘は水晶玉を手に応戦し、一つ、また一つと闇の手を打ち砕いていく。しかし、怪異に絶大な力を持つ智弘ですら、無数の闇の手から古橋を守るため、徐々に防戦一方を強いられていた。
まどかを倒すしかない。そう呟く智弘に、古橋が取りすがる。「まーちゃんを殺さないで」その叫びは智弘自身の願いでもあった。けれど、このままでは自分も、そして古橋も──
まどかを見つめる古橋の胸中には不安が渦巻いていた。「彼」が、彼女を救ったのだろうか。彼女を救うには、自分は力不足なんだろうか。迷いの中、唇をただ震わせる古橋に、迷いなく狙いを定めるまどか。
その一撃が古橋を打つ直前、智弘が彼を突き飛ばす。古橋を狙ったはずの一撃に倒れる智弘。悲鳴と共に駆け寄ってくる古橋へ、智弘は叫ぶ。諦めないで、と。ここで諦めたら、彼女はもう救えない。救うと決めたのなら、信じ続けて。君ならきっと出来るから、と。
暗闇から伸びた手が智弘を捕らえ、澱みの底へ引きずり込む。取り残された古橋は、震える足で立ち上がった。
「助けたい」落間も、智弘も、そしてまどかも。その為には、ここで挫ける訳にはいかない。
古橋は走った。迷いを、不安をかなぐり捨て、ただもう一度、まどかに自分の言葉を届ける為に。暴走する霊気がその身を傷つけるのも構わずに、彼女へ必死に手を伸ばし――傷ついたその手が、まどかを抱き留めた。
驚愕に目を見開くまどか。振りほどこうともがく彼女を強く抱きしめ、帰って来て、と繰り返す古橋。その無防備な背を貫こうとしたまどかの手が、止まった。古橋がもう一度繰り返す。「帰ってきて」。「まーちゃんがいなきゃ、嫌だ」。
震えるまどかの手が、ゆっくりと古橋の背中に触れた。伝わる温もりに気づいた瞬間、不意に彼女の視界が揺らぐ。それは、溢れ出す涙だった。
古橋に縋って泣くまどかの背後で、何かがひび割れる音。顔を上げた古橋の視線の先で、透明な鏡が砕け散る。その破片は、薄れる闇と共に消え――まどかは、もはや半透明ではなく、確かにそこに帰ってきていた。