闇に引きずり込まれた小太郎を起こしたのは、懐かしい幼馴染の声だった。目を見開いた彼の視界に飛び込んできたのは半透明の誠人、そしてその背後に揺らぎうごめく靄のような闇と、意識を失う前に聞いていた悪意の声。靄む地下室の中、揺らぎながらも確かに霊道が口を開いており、そこは霊界とも現世ともつかぬ場所へと変貌していた。
その床に倒れ込んだままの、落間をはじめ、闇に飲み込まれた者達。傷ついた体を無理に引きずり起こし、彼らへと駆け寄る小太郎だが、誰一人目を覚まさない。坂本の体を揺さぶった時、彼女の体から滲み浮かんだ靄が空間にうごめく靄と混じりあい、その色を増した。
「みんなの魂が、悪意に変えられてるんだ」──智弘から立ち上る靄を溶かし戻しながら、誠人はそう呟いた。満ちた悪意に晒された心は反射のように悪意を抱き、そして吸いだされた悪意が再び悪意を招く循環。その果てに削り取られた魂は、いつしか消滅してしまう。
誰かの魂が消滅しようと、広がった霊道がただ悪意を飲みこみ、そして霊界を通して悪意は世界中へまき散らされる──
マコトのたくらみを理解した小太郎は、けれど出口も見つけられず、守るべき皆を守ることが出来ない焦りと怒りに、荒々しく壁を殴りつけた。何度も、幾度も、その壁が打ち崩せるなど思えないまま、なぜ、今この手は無力なのかと、焦燥に拳を打ち付ける。
血のにじむその拳を、半透明の手がそっと押さえた。「コタちゃんは、全部自分で抱え込もうとしてる」傷を包むようなその手を振り払い、小太郎は怒りの矛先を誠人へと向けた──それが理不尽な怒りだとわかっていても。
「俺がやらなければ、いったい誰がやる。皆を見捨てる訳にはいかないんだ」小太郎が叫んだ瞬間、誠人の実体のない腕が、彼をなだめるように包む。僕を信じてよ。小さな一言が、小太郎の耳に届いた。
信じて、と。幼馴染みのその言葉が、胸中を震わせる。「お前なんかに、何が出来る」震える言葉に返されたのは、柔らかな言葉。「“みんな”の魂を、守るよ」怒りと焦り、植えこまれた悪意の最後の足掻きに操られたかのように、小太郎はなおも言葉を紡ぐ。けれど誠人は向けられた悪意に怒る事もなく、小太郎の背を緩やかに撫でた。
ずっとざわめいていた苛立ちが、ゆっくりと凪いでいく感覚。「信じて」もう一度響いた、一度は抗ったその言葉に、小太郎はそっと目を閉じた。
──皆を大切に思ってはいても、本当に信じたことは無かった。一人責任を抱えすぎて、それに潰されかけていた。誰かを守る、それだけを金科玉条のように支えに、誰の手も借りられず──否、借りようともせず。
透き通る手が優しく背を撫でるのが、身体でなく心に滲むように伝わっていく。
小太郎は静かに立ち上がった。皆を頼む。短い言葉を聞いて、力強く頷く誠人。校舎へと戻るため、小太郎は誠人の霊道へと飛び込む。霊道の中、黒い悪意に囁きかけられても、彼はただ前を向いていた。

教室で、マコトと対峙するアカネ。「あいつをどこへやったの?」問うアカネに、彼は笑いながら答えた。「俺が食べたよ。もういない」と。しかしアカネは鼻で笑う。そんな訳がない。あいつを倒すのはあたしと決まってるんだから。それはかつての敵へ抱く、紛れもない信頼だった。
解せぬ様子のマコトに向かい、アカネはバットを振りかぶり跳躍した。霊気を纏ったそれは、彼を守る闇の触手ごと、マコトを強かに打ち据える。だがマコトはよろめくこともなく、アカネへ針のような触手を突き出した。それを一つ受ける度、除霊で力を削られた身体に、深い傷が刻まれる。それでも怯むことなく、アカネは幾度も、踊るようにバットを繰り出す。前へ前へ踏み込んで、マコトの無尽蔵とも思える闇を叩き潰していく。
傷つくほどに勢いを増す攻撃が、何度目かに闇を打ち払った頃。マコトは面倒そうに溜息をつき、闇を束ねた。「つまらないね」アカネの攻撃をすべて無にするごとき呟きにも、アカネはひるまない。床がひずむほどの跳躍と共に一撃をマコトに叩きこんだその瞬間、巨大な闇の槍が彼女の胸に風穴を開け抉った。ついに限界が訪れ、崩れ落ちるアカネ。床に倒れ込んだ彼女は、しかし口元に笑みを浮かべた。「遅いよ、バーカ」――マコトがその真意を察するより早く、教室の扉が音を立てて開く。その向こうには、望月小太郎が立っていた。

退魔の札を構える小太郎を見て、今更何をしに来たんだ、と笑うマコト。自分の出来ることをしに来た――そう答えながら、小太郎はマコトへ札を投げつける。飛来する札を次々と闇に飲み込みながら、マコトは肩を竦めた。まだ悪意に勝てる気でいるのか。人間の癖に。伸び上がる闇が、そのまま小太郎のもとへ殺到する。
攻撃が通じず、防戦一方になる小太郎だが、彼は冷静さを取り戻していた。襲い来る闇の触手を払い、間合いを計りながら、攻撃に転じる機会を窺う。そんな小太郎を見て、マコトは訝しげに目を細めた。さっきまでの怒りはどこへ行った、俺が憎くないのか、と。
問いかけに、小太郎は首を横に振る。怒りが消えた訳ではない。けれど、それに振り回されている場合でもない。そう小太郎が答えた瞬間。マコトの顔から、表情が消えた。
膨れ上がった闇が、床を砕いて小太郎に迫る。先程までのもてあそぶような攻撃とは違い、一撃一撃に込められたのは明らかな殺意。時には札を犠牲にし、時には床を這うようにして逃れる小太郎は、その攻撃に含まれた、確かな焦りを感じ取っていた。
どうした、と。次は小太郎が問う番だった。うるさい、俺は悪意だ、俺を憎め――苛立ったように叫ぶマコト。自分の言葉に含まれていた何に、彼はこうも反応したのか。考えたときにふと、小太郎は思い出す。誠人が自分と向き合い、支えとなってくれた瞬間、自分の中に芽生えていた焦りや怒り、悪意が、息を潜めたことを。マコトもまた、悪意であるというのなら。
受け止め、向かい合うことこそが。マコトに――人の抱く悪意に対抗する、ただ一つの手段だったのだ。そして信じ合い、支え合える誰かが居れば、自分の中の悪意を受け止めることも出来る。そう悟った小太郎に対し、マコトは初めて動揺を見せる。その隙に叩きつけた退魔の札は、ついに闇の一端を焼き払った。
四方から押し寄せる黒い影へ、退魔の札を放つ小太郎。それは一瞬の足止めに過ぎないが、その一瞬の間を縫い、マコトへと向かって走る。彼を近づけまいと、マコトは纏う闇の全てを以て攻撃へ転じる。
傷つきながらも、ひるまず踏み込む小太郎へ、彼は鋭い闇の槍を突き出した。真正面からの、避けようもない一撃――だが、小太郎が狙っていたのは、そのタイミングだった。闇に食われる寸前に、マコトの胸へと退魔の札を投げつける小太郎。闇を切り裂くまばゆい光が、マコトの姿を飲み込んだ。

夕暮れの街を落間が歩く。掛かってきていた電話が切れて、次の依頼人が決まった。今度の事件は、少々面倒臭そうだ。コタに応援を頼もうか。いや――思案の後、落間はメールを打ち込んだ。「明日の放課後、ちょっと手伝え」それだけの文面を送信した先は、古橋のメールアドレス。霊絡みでこちらから声をかけるのは、そういえば初めてだったろうか。そんなことを思いながら、落間は自転車に飛び乗る。鮮やかな夕焼け空の下、ペダルの音が高く響いた。

下校しようとしていたまどかは、古橋に呼び止められた。一緒に帰ろう、と誘う彼に頷いたものの、どうもあの日以来、意識してしまって仕方がない。隣を歩む古橋の顔を見られずにいると、彼はぽつりと呟く。「まーちゃん、怒ってる?」と。慌てて振り向いたまどかが目にしたのは、よく見慣れた幼馴染みの不安げな顔。無意識に、まどかは小さく笑った。首を横に振って、古橋の手をそっと握る。目を丸くした彼を見つめながら、あの日言えなかった「ありがとう」が、今なら言える気がしていた。

人を殺した気がする。坂本は、自身の利き手をじっと見つめた。あの日、この手に握ったあの包丁は、名もよく知らぬ同級生を切り裂いた筈だ。気がつけば日常が戻っていて、殺した女は生きていて、あれは何だったのか、誰かに聞くことも出来ず。――坂本は椅子を立ち上がった。「どっちでもいいか」そんなことより大会も近い。部活動へ向かうため、彼女は教室の扉を開けた。

神楽は一人、校舎の鏡を覗きこむ。そこには怪しげな何かの姿も見えず、印が描かれていることもない。「何もないねー、ピーちゃん」――あの日のことは夢だったのだろうか? 夢でなかったとしたら、この学園で何があって、彼らは何をしたのだろうか? 答えは未だ出ず、彼女はその鏡に背を向ける。「よし! 会長ちゃんに聞こう!」ピーちゃんにそう宣言し、腹ぺこのままの好奇心を抱え、神楽は廊下を駆け出した。

生徒会室の小太郎を、智弘と大上が訪ねてきた。頼まれていた伝言を思い出したという大上は、彼にこんな一言を告げる。「あたしはまた帰って来る」と。でも誰の伝言だったかしら。首を傾げる大上に、小太郎は胸中の溜息を隠して、さあな、と首を傾げて見せる。わざとらしいその仕草に、訝しげな視線を向ける智弘。小太郎は彼の背を軽く叩き、従姉が心配する前に帰れとからかう。笑い声と憤慨の声が、夕日に染まる生徒会室に弾けた。

いつもの帰り道を、誠人と歩く小太郎。日常の他愛もない話をしながら、差し掛かった公園に、ふと目をやった。幼き日、ここで手を引いていた幼馴染みは、今は隣に立っている。後ろで守られるだけではなく、小太郎の手を支える距離で。視線を落とした拳にうっすらと残る、夢の中の傷の跡。その傷を覆うように、隣からひょいと絆創膏が差し出された。「そういえば、遅くなったけど」そう肩を竦める誠人の手から、ゆっくりと絆創膏を受け取る小太郎。お互い様だと呟けば、誠人は小さく笑い声を洩らした。小太郎は絆創膏をポケットに滑り込ませ、誠人を促して帰路へと歩を向ける。
夕暮れの道に、長く影が伸びていた。